5/21(土) おはようございます。
一昨日からフィリピン共和国に研修旅行という名の観光に来ております。
今朝は交通渋滞を避ける為に、午前7時前にホテルを出発
車で約2時間走り、パンパンガ州マバラカットへ
第二次世界大戦中、日本最初の神風特別攻撃隊が飛び立った場所です。
昭和19年10月25日、関行男大尉の率いる神風特別攻撃隊「敷島隊」の5機は、ルソン島西部のマパラカット飛行場から出撃して、レイテ湾のアメリカ艦隊に突入しました。
バンバン歴史博物館は、Rhonie C.デラクルス氏が、私財を投じて日本軍の遺骨収集や遺品収集を行い、鎮魂につとめ、教育や平和的理解を目的としてとして戦争博物館を設立しました。
1945年1月6日から終戦までフィリピン・ルソン島で行われたアメリカ軍との陸上戦闘では、日本軍戦死者が21万人以上だったそうです。
バンバン歴史博物館にある祭壇に手を合わせて、鎮魂の祈りを捧げてきました。
バンバンの第一航空隊司令部跡は、今は大西瀧治郎平和記念碑 が建てられています。
記念碑は1998年に門司親徳さんが私費で建立しました。
門司親徳さんは、「神風特攻隊生みの親」と言われる大西瀧治郎中将の副官として、フィリピンにおける航空特攻の一部始終を記録する立場にあった方です。
戦後は丸三証券社長などを務められました。
大西瀧治郎海軍中将の平和記念碑が建つ後ろの斜面を上ると、すぐ第一航空艦隊司令壕跡があります。
ジャングルの中に防空壕があちらこちらにあります。
案内してくれる地元住民の方から、「コブラとサソリが普通に居るから気を付けて!」と言われて、ちょいとビビる
旧日本軍は兵站を断たれ、弾薬や食料などの補給物資が届かない過酷な状況でも、地下壕や陣地に潜んで終戦まで抵抗を試みたそうです。
今日のお昼ごはんは、案内してくれるK氏(フィリピン在住の日本人)の親戚がいるブラカン州の一般家庭でご馳走になります。
インディカ米のごはん
素揚げしたティラピア
水代わりのビール
K氏が「今日はフィリピン式で手で食べよう!」と宣うので、右手で食べてみました。
塩を利かせた素揚げのティラピアがけっこう美味しい
「おいしい!」と言って食べていると、家の人達がたいへん喜んでくれました。
ごはん山盛りにされたと思ったら、ティラピアがもう一匹追加されました
食べ物の好き嫌いが無いので、どこでも生きていけると言われる㈱日食 内田です。
ちょうど1期目の稲刈りが終わったところでした。
フィリピンでは年に米の収穫を2回=2期作が行われています。
フィリピンの国民一人当たりの年間コメ消費量は118kgで、日本の2倍以上です。
石・砂・ゴミが入るのは気にしないのでしょうね
雲行きが怪しくなり、雨が降り始めそうでしたので籾の集荷を急いでいました。
床板が木製の怪しい橋を渡り、更にパンパンガ州の農村奥地へ向かいます。
見渡す限りの田んぼのパンパンガ州の農村に連れてこられたが。。。
激しい雨が降ってきました⇒これって南国特有のスコールってやつらしいです
しかも、ジメジメしてかなり蒸し暑いです。
大規模農家さんとはいえ、凄い量の籾を倉庫に積んでいますね
周囲は水牛で耕作していたから、かなり先鋭的な農業経営者です。
インディカ米は汎用コンバインで稲刈りするんですね
町中に「日本人が田んぼを見に来たぞ!」と噂が広がり、水牛に乗って現れた農家さん
岐阜県の暴れん坊・I社長が「日本人の独身が嫁を探しに来た!」と言ったものだから、さあ大変
㈱日食 内田は3人の娘のうちの一人を日本に連れて帰るように、執拗に(約1時間)頼まれたのでした
視察を終えてマニラに戻ったら、21時を過ぎていました。
晩ごはんは、創業1936年のフィリピンの老舗中の老舗レストラン ARISTOCRAT RESTAURANT(アリストクラット)へ
地元の方々に大人気のチキンバーベキュー
シニガンという伝統的な酸味の強いスープ
ポークシシッグという豚の耳や顔の部分をガーリック・オニオンで炒めたもの
フィリピン料理は油くどく、甘すぎたり、揚げ物で使うココナツオイルが時としてクセが強かったりと、日本人にはハードルが高いと言われることが多いです。
㈱日食 内田は苦手な料理もなく、美味しくフィリピン料理をいただくことが出来ました。